…2000年という時をむかえ…

 希望とか絶望という言葉で飾るのが相応しいのではなく、ただ静かに目の前にある現実を見つめ、冷静な理想を築き、誠実に理想を日常に浸透させていく。そんな日々をおくる年が始まればと思うのです。
 すべては既存の概念でなく、新しい関係により始まらなくてはなりません。人と人、女と男、環境と人類、自然と化学、文化と政治、すべてが一つの流れの中でお互いの関係を新たにし、混沌の中で常に進化しつづけていく事が未来を生み出す事と言えるのではないでしょうか。それは決して希望的な物でもなければ絶望的な物でもありません。ただひたすら認識を求めつづけてくるだけの物であると思うのです。誰も決める事が出来る物ではなく、そこにある現実に如何に対処し、考えつづけ、行動を起こす事で結果として生み出される物なのでしょう。
 環境問題を声高に叫び、地球の崩壊を唱えるのも良いでしょう。政治や企業経済を否定する事もかまいません。何も考えずに持てる命の時間を費やすのも一つでしょう。そこに、すべては完全な正解が無い事を認識する事さえ出来れば良いのです。すべての考えや行動を理解し、その人を認め、お互いの意見を認識しあう事が最も大切ではないでしょうか。理解がなければ否定も生まれません。新しい関係を作るためには古い物を否定する場合も多くあります。古い物を取り戻すには今の現実を芯から認識し、それを認める力が必要になります。たとえば南北の問題に代表されるようにお互いの価値観を理解出来ない事が大きな問題を解決不可能にしてしまうのです。
 好きな異性がいたとします。そしてその人に対し、自分の考えや価値観を伝え、共感してもらい、同じ価値観を共有したいと望んだとします。しかし、お互いがそれを行なえばどうなるでしょうか。また、片思いの場合はどうでしょう。
 人は互いの違いを認め合い、尊重しあうことでしか共に生きることはできません。しかし、これは同じ民族同士ですら難しい事です。まして民族を超えて理解し合う事がはたしてどの位できるのか見当もつきません。友愛という理想をどのようにして手に入れるのか、大きな課題です。理想を現実の対比語と考える人もいるでしょう。しかし私には理想は現実の目的語であると思えてなりません。でなければ理想という言葉は幻想、非現実といったマイナス要素、ネガティブな言葉と同列になってしまうからです。しかし空想や超現実はポジティブな力になりえます。そんな力こそ、今最も大切にしていかなくてはならないのではないでしょうか。
 小さな子どもは、その母を無条件に愛します。また、どんなに人から見て問題のある人物でも、すべてを包括して愛す母もいるでしょう。すべてに完璧な物はありません。しかしその不完全な部分も含めてその物を認め、本質を愛す事が今求められているように思います。私たち人間を生んだのは地球です。その母である地球に私たちは甘え、ねだり、傷つけてきました。今までその母はだまってそんな私たちを愛してくれました。私たちはさらに兄弟姉妹をも傷つけ始めました。母はいつまで私たちを許してくれるのでしょうか。
 しかし私たちも母や兄弟達を愛しています。幼い子どもと同じ心をまだ持っているはずです。お互いを認め合い、生きる道を探す事はここから始まるのではないでしょうか。私たち人類が生んだ文明という子どもを、私たちはこよなく愛しています。その子どもに、今、私たちだけでなく、私たちの母までもが傷つけられています。愛する者同士がどのように理解し合い生きていくのか、新しい道を模索していかなくてはなりません。現実を冷静に見つめ、一人ひとりが理想を築き、日々に戦いを挑み、他者を理解し、混沌の中から常に新しい糸を手繰っていく事が、誰にでも出来、未来を認識する事につながるのでしょう。
 釈迦が誕生した時、「天上天下唯我独尊」と言ったと言われます。これは、生まれたままの子どもは何よりも自分しか尊いと思わない、つまり誰をも差別する意識さえ無いという絶対的な平等の事です。平等とは差別という意識の存在があると成り立たない物であるからです。
 命あるもの同士が平等に認め合い生きる事の出来る社会は幻想からは生まれません。理想としての現実を空想という力で見つめつづけることから生まれ来るものであるのです。そして、生まれ来る物は子どもであり、その成長は社会と親の影響で良くも悪くも変わってしまうのです。

2000年1月1日
名原真人

Photo:Yuji Shinoda /ストリートチルドレンを考える会提供