“人が人である以上、” 偉大なる演出家、サルティンは思った。彼の舞台は今まさに開演の時を迎えていた。しかし客席にどれほどの観客がいるのか、また彼らが この舞台に何を期待しているのか、彼にとって今は問題でなかった。彼は舞台の裾で一人小さ な木の椅子に腰掛け、これから彼が彼の時間の中で創りつづけていくであろう舞台について考えていた。 彼は今までに何百、何千かもしれない舞台を創ってきた。しかし、これで良しと思える舞台はただの一度も無かった。もちろんどんな演出 家も同じ事は感じているだろう。けれども彼の場合、他の演出家とは違う理由を持っていた。 それはその原因のすべては彼の役者達の為だったからである。 彼が舞台を創り始めた頃、彼は彼の役者に大いなる期待を持っていた。それは役者達がサルティンの そのような事が何十、何百と続いた。役者達 はその度に入れ替わっていった。彼は彼の役者達に期待を持たなくなっていった。不思議なことに彼の意に反した舞台に成ればなる程、世間における彼の舞台の評判は高くなった。「人間 の本質にせまる崇高な舞台」「悲惨な現実を直視している」「スケールの大きな圧倒的迫力」 しかし、そんな評判は彼にとってはどうでも良い事であった。 |
開演前を告げる第一ブザーがなった。彼は小 さな椅子に座ったまま考えていた。 彼が“偉大なる演出家”と呼ばれるのには理由があった。それは彼の舞台には全くと言って良い程シナリオが書かれてなく、どのような舞台になるのか、その場になって初めて分かる物だからである。そして、それは無秩序な寸劇ではなく、彼の意思と役者の意思に基づき法則的な舞台となるべく演出され、その完成度は類を見ない程の見事な物であった。彼には役者達の意思を重視しすぎる傾向があった。それが彼の 理想とする舞台を壊してしまう結果を生んでいたのだが、彼の意思のみにおいて舞台を創ることは、彼の意に決して添う物ではなかった。しかし、何よりも彼を偉大と呼ばしめたのは、彼が彼の前に立つ全ての人間を役者とし、彼らの舞台を演じさせる力を持っていたからである。 ある時、主人公は子どもであった。主人公は 強い物にあこがれた。そして仲間と小さな戦争ゲームを始めた。彼等はお互いの強さを競い合 い、強ければ強いほど英雄であり、勝者は必ず正義となりえた。彼はやがて成長し、戦地へ赴 く。そこは彼の夢みた英雄や正義とは程遠い、悪魔と死の力のみが存在していた。彼は彼の内 なる正義が、単に彼に巣食う悪魔の力でしかなく、そして限りなく強い物である事を理解し た。しかしその瞬間、彼は彼の舞台の幕を降ろす事となる。 ある時、主人公は平凡な街の勤め人であっ た。日々の楽しみを酒や賭け事に求め、新聞の上に繰り広げられる政治や事件を楽しんでいた。彼には妻と17になる息子が一人いた。しかし、彼は自分の人生同様、その存在の大切さを 全く理解してはいなかった。いや、悲しい事に彼には、自分の人生というものを真剣に考えた り、生きる目的に考えをめぐらせたりという事がいかに大切かという事さえも理解する力は無かった。 |
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隣り町の工場で大きな火災が起きた時 だった。彼は仕事の帰りに、いつも乗るバス乗り場で新聞を購入し、その記事を読んでいた。 被害は日に日に大きくなっていた。「大変な事故になったものだ」彼は出来るだけの真顔で隣 の席の見知らぬ同乗者に話しかけながら、その被害が大きくなればなるほど、心の内では何か 興奮するものを感じた。平凡で単純な人間であった。彼の平凡で単純な人生は、その火災が 彼の息子による放火である事が分かった時から変わった。彼は仕事を離れ、妻は数年の後離れ ていった。息子は罪を償った後も彼のもとには帰ってこなかった。しかし、彼は何も自分を変 える事が出来なかった。平凡で単純な人間は、その人生の幕が降りるとき静 かに泣いた。 | そして、その期 待はやがて舞台に立つ役者のような不思議な緊張へと変わっていく。なぜなら彼らは幕が上が ると同時に偉大なるサルティンの前に立つ事になるから。
サルティンは小さな椅子を持って舞台に向 かって歩き、緞帳の裏に立った。彼が立つ舞台の側には役者は誰一人いない。 サルティンは思う。“この舞台も今までと同 じ結果になることだろう。そしてこれから私が創りつづけていくであろう舞台も恐らく何も変 わりはしない。ならばもう創る必要などないではないか。もう終わりにするべきだ。この舞台 を最後にしよう。”彼は椅子を床に下ろすと、緞帳に向かって静かに腰を下ろした。 |
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“人が人である以上、”
サルティンはそうつぶやくと小さな椅子から腰を上げ た。 観客席は満員であった。沢山の観客は沢山の期待をこの 舞台に向けていた。 ある婦人は舞台の上で繰り広げられる悲しい恋愛劇を期 待した。「主人公は貧しい娘がいいわ。」婦人は高価な宝石をちりばめた指 輪を光らせながら香水の香る扇で周りの空気をかき回した。「貧しさの中から本当の幸せを見 つける。相手の男性はお金持ちの息子だけれど恋の為に家を捨てるの。そう、お金はすべての 害よ。愛にお金は必要ないの。」 ある学生は考えた。「不条理でなくてはいけ ない。世の中は道徳や常識のゴミで居場所が無くなってしまった。そんな現実を覆す物であれ ばいい。権力や政治には刃向かわなければ。でもなぜ?まあいい。とにかく不条理であれば楽 しめる。」 すべての人の期待は、時間と共にじきに上が る幕に向け膨らみ高まっていく。なぜならそれは何が起こるか分からない偉大なる演出家サルティンによる舞台であるから。 |
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緞帳の向こうにはこれから始まる舞台の役者がそろって いる。彼らは己が人生を演じる舞台の幕を緊張と共にまっ ている。
サルティンは目を閉じていつか夢に見た素晴らしい舞台を思い返した。どんな舞台であったのか、今ははっきりと 思い返す事は出来ない。ただ、一つだけはっきりと思い出せる物がある。それは本当に夢だったのか、それともどこかで見た記憶なのか、彼にはどうしても分からなかった。 |
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“人が人である以上、何度でも同じ舞台を繰 り返す事だろう。けれどもやはり私は創り続けていきたい。いつか夢で見た、あの砂漠に立つ子ども、あの泉のような瞳に中に美しく輝いていた太陽に少なからぬ希望を見る事が出来たか らには。” 彼は再び静かに目を開けた。 舞台の開幕を告げるブザーが鳴った。 福猫(ふくねこ) |
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