楽しい生活

02/8/03

 社会や自分に正直に生きようとすると大変貧乏になります。

 現在の経済体系の中で、社会や環境、ローカルで極めてシンプルな構造の経済に、負担無く、あるべき姿を求めると、コストの高い物しか販売できず、お店や会社はつぶれてしまいます。もちろん、オルターナティブな経済を実証しているものもありますし、それで成功しているお店や会社も無くは無いでしょう。

 しかし、一般に考えると、それはほんの僅かしかないといわざるを得ません。昨今のデフレにより物価は下降していますが、生活は良くなっているのでしょうか。デフレにより得をしているのは大資本を元に安い海外労働力や児童労働、労働搾取により原材料や製品を調達している企業か、その企業の下に利益を得ている人たちだけです。小さな資本は淘汰され、その下で収入を得ていた人たちは失業、野宿という事態になります。つまり、物が安くなれば、お金持ちは益々得をし、お金の無い人間は益々貧乏になるのです。(くやしい!)

 正しい生き方をしようと、買い物は自然食品店で行い、野菜は無農薬野菜、外食はナチュラルレストランで、と思ったとします。しかしそれにはとても経済的な負担が伴い、貧乏人には不可能なのです。最初に言ったとおり、社会や環境、自分に正しく正直に生きようとすると貧乏になリますので、そのような買い物もできなくなり、妥協に妥協を重ね、外国産の食品を一部取り入れたり、無添加ではあってもオーガニックではないもの、あるいは最低限の添加物の入ったもの、生活雑貨や衣料も海外生産の物を購入せざるを得ないようになり、なぜかゴミまで増えてくるのです。ナチュラルレストランに入るお金持ちそうな人たちを指をくわえて見ているしかないのです。貧乏人はお金持ちが作った安い商品の顧客となり、正しい消費者(グリーンコンシューマー)になるためには正しくない仕事をしていくのが一番という不可思議な構図が出来上がっているのです。(納得できませんねえ!)これが世界の構造の末端であり縮図なのです。

 さて、人は贅沢を覚えると際限なくそれを求めると言われています。人の欲望は決して満たされることは無いということです。私も貧乏ですが(ホント)、第3世界の苦しい生活を強いられている人々や、40年前の日本人よりは贅沢な生活であると思います。修行僧がたまに食事に一菜増えると大変ご馳走であると思うといいます。我が家でも野菜の天婦羅が出ると大ご馳走ですし、万一、秋刀魚の塩焼き等出ようものなら宴会気分でしょう。つまり日々が質素であればちょっとしたこともご馳走となり大きな喜びになるのです。ところが日々贅沢を繰り返しているとちょっとのことでは贅沢な気分を味わえません。それこそ一流のレストランを選んで食事をするとかブランド志向に走らなくては生活できないという結果になるでしょう。益々消費を促進しなくてはなりませんねえ。かわいそうに。

 よく、「そんな生活の何が楽しいの?」と言う人がいますが、「そんな生活、空しくない?」と聞いてしまいたくなります。沢山消費するために沢山かせがなくてはならない生活、ちょっとした事が喜びにつながらない生活、私はむしろその方がつまらないと思います。(貧乏人の僻みもあるのかなあ?)日本人こだわりの寿司を食べる為に大量のマグロを海外から輸入し、安くて美味しい肉を食べる為、豊かな第3世界の穀倉地を求め、森林を破壊する、そこまでする必要があるのでしょうか。少なくともほんの100年まえはそうではありませんでした。さらにさかのぼれば、動物と命の遣り取りをする猟をしなければ肉は食べられなかったでしょうし、そんな漁をしなければ魚は食べられませんでした。

 神様は人という不条理な物を創りました。自然界のものは大量のエネルギーを与えると破壊されてしまいます。植物でも水や肥やしをやり過ぎると枯れてしまいます。与えるものを最低限に留めることで活性化し、自らが持つ機能が高まるように創られています。人も同じです。養分を大量に与えると、肥ヤケしてしまいます。よく成人病(生活習慣病)と言われているものですね。しかし、人間は不思議な創造物で、そのような状況、大量の肥やしを自らの生命を犠牲にしても求めていくのです。まったく不条理です。

 もういちど考えてみましょう。お金を沢山稼ぐには貧乏人を生産しなくてはなりません。世界的レベルで見ても同じです。お金はその配分が不均等なだけで、絶対量はそれほど変わらないということです。変わっているのは、物質として存在しないお金、しかし何より強い力を持つ数字上のお金だけです。グローバルな経済による大量生産に基づくのではなく、できるだけローカルな経済で労働力を対価として交換できる貨幣システムを作れば、あまっている労働力を雇用につなげ、少量生産による本来の経済を取り戻す事ができるでしょう。

 しかし現在の社会では配分のバランスを破壊することで一部の人間が潤っているだけなのです。

 そんな生活、何が楽しいの?

 私たちが思うちょっとの贅沢をするために、あるいは肥やしの与えすぎによる病気を、自己の責ではなく、運命の悲劇と嘆き、治療に莫大なお金をかけている人たちが大勢いる傍らで、確実に沢山の子どもたちが餓死している、あるいは路上生活を強いられているという事実があるのです。私たちの生活は、世界的レベルの貧困を作るだけでなく、必ず子どもたちの死を生んでいるのです。

 その点をもういちど考えて「楽しい生活」をしてください。

福猫