01.05.27

社会の会社
…個人の自由はどこへ行く…

 社会というものは個人の集まりで出来ている。ならば社会と個人は同じ物なのかというとこれが違う。全く相反しているから面白い?

 集団というものは数の論理で有名である。つまり個人の集まりでも、その数の多い考えや価値観が集団、社会の意思となる。ミンシュシュギという物が存在する以上、まあある意味必要な方策ではある。しかしながら、正しいか正しくないかという問題は別であり、必ずしも数の多い方が正しい訳ではない。むしろその逆の場合が多いと思われることは周知の通りであり、正確に表現するならば、正しいとか間違っているという言い方そのものが、集団には存在しないと言えるだろう。

 ところが、未成熟な個人の集まりは不可思議な社会を作り出す。そのような個人の集合体では、性質の近い者が寄り集まり絶対多数の集団を形成する。そしてその集団の行動、意向に沿わない者は異端者として排除される。価値観の基準は集団に属し、そこに属す個人はその価値観に従うのが通常となるのだ。個人が未成熟な場合は、その法則の矛盾をたとえ理解する事が出来ても、感じる事が出来ない。つまり、集団以外はすべて他人事であり、集団に属さない個人に対しては思いやったり、価値観を認めたりする事が出来ない。よく言う集団の原理とは、このように未成熟な個人の為、自己を考えたり、社会の矛盾に目を向ける事が出来ず、自分の目の前だけを見、集団の意思に従う事で、安楽に過ごす事しか出来ない哀れな人間の特性を象徴したものであろう。この特性をうまく利用したのが日本の場合「会社」であり社会の基礎を作るものである。不可思議な社会になるのは当然である。

 もちろん近年ではその問題を理解した会社も増え、個人の価値観や能力に基づき会社組織を伸ばしている例がある事も事実ではある。しかし、それはごく一部にすぎず、日本の90%を占める中小の企業では稀な存在で、それら小さな会社組織が集まり、また一つの集団を作り、独自の原理の基に意思統一を図っている。

 そのような一般論はともかく、ここで問題にしたいのは、考える事を放棄し、安直に生きる人間ほど正しいとされ、自分に正直に正しいと信じる生き方に努力している人間ほど間違っていると見られてしまう事である。努力をすればするだけ社会から敬遠されていくのは昔からの事ではあるが、ここが変わらない事には社会の何も変える事が出来ない。

 身近で非常に単純な例であげると、ベジタリアンの例がある。私自身、ベジタリアンであり、そのおかげで色々な問題を考えるきっかけにもなった。ベジタリアンである事は非常に社会の問題に密接に関わっていく事になるのだが、それはまた別の話としていつか述べたい。

 ベジタリアンになるという事は、肉や魚、動物性の物を摂取することを止め、地球上の一生命として自然の法則に従うべく生きる事である。ここでは深く述べないが、肉や魚を食べると言う事は、自己の不必要なまでの快楽のため、他の意思を持つ生命を、食べるという目的の為のみにコントロールし、増殖させ、殺害する事である。さらにその一皿の快楽の為には、明日の食料すら保証されていない他国の子ども達10人分以上の穀物を費やしている。その事を考えるだけでも肉や魚を無駄に食べる事は出来ないのだが、この肉食が自己の健康をも蝕み、現代病である成人病や癌の基とるなると分かれば、自分の為にも、家族の為にも食べる事は出来ない。しかし、戦後の鯨に始まる西洋型蛋白信仰は、今の世でも他の宗教を抜いて最も信者が多く、ベジタリアンのごときは踏絵を踏まされるか貼り付け獄門となってしまう。ましてその食材の素性まで問題としようものなら国家反逆罪という付録まで付けられるであろう。

 ベジタリアンであることを理由に集団の付き合いを拒もうものなら、社会では我がまま者、異端者として非難され排除されていく。どんなに信条があろうと集団の意思には従うのを正しいとされる。自己の快楽のままに安直に生きる人が正しいとされ、欲望を絶ち、生きにくい社会の中で苦労し、社会、家族、自己の為に真剣に生きようとしている人間が非難されるのはどう考えても理不尽極まりない。彼等に1週間でも肉食を断つ勇気と精神力があるのならやってみて欲しい。それから物を言うべきであろう。経験もなく理解もしていない事を否定する権利はどこにもないはずである。ベジタリアンは食べられなかった人より、寧ろ大好きであった物を断った、食べなかった人達が多いのである。アレルギーで食べられない人達だって世の中には沢山いる。それさえも、集団では我がまま者扱いされ、配慮される事は稀である。立場の違う人を理解し、思いやる事が出来れば少なからず苦しんでいる人達に希望を持てる社会の場を提供する事が出来るであろうに。

 これは単純な例ではあるが、実際に真剣に物事を考え生きていこうとする人が社会を築いていく人であることは常識からしても当たり前のはずである。しかし、そのように自己をしっかりと持ち、信条に従い努力する人であればあるほど、集団にとっては敵となる。楽に生きようとする力、集団に属す事ですべてを他人事としてしまう力は、人間の弱さという無限のエネルギーを源としているため、何よりも大きく強い力を持っている。しかし、その力が、南北の問題を始めとする現在の社会の諸問題を作り上げているのは明白である。自己の快楽のみを追求し、異なる価値観を認め他人を思いやる事が出来ない。そんな世の中であるから、日本で日の丸君が代が強制され、思想信条の自由を説くものが処罰されていくのは、至極あたりまえの事であるように思う。国家という集団に、国民という個人を従属させる事がいかに国を統治しやすい事か。人の痛みを感じられない事がいかに生きやすいか。

 今、私たちの社会は、自己の快楽のため、社会、経済を支える企業も自己の利のみを見つづけているため、子ども達の未来を犠牲にしようとしている。それは政治や経済、国際問題ではなく、自分たち一人一人の生きる姿勢であり、転化できない責任である。その事を充分に認識して生きていく事の出来る人間の社会を如何にして作るのか、それが今を生きる私たちの責任でもあると思う。一人一人の価値観を尊重し、個人でなく、社会、世界の真の利益を見据える事が出来る人づくりをしていかなくてはならないと痛感する。

 集団の理が数であるのなら、世界という大きな社会では、最も数の多い南の人々、「ハッテントジョウコク」の人々の意見が、尊重されているのであろう???!

福猫