その壱

・・・人もすなる日記というものを猫もしてみむとてするにゃり・・・福

 少年よ大志を抱け…といったのは遥か昔の事。今は抱く大志も探す事さえ難しい。なにしろ望めば何でも手に入り、人の命さえ手に入れる事も難しくはない。少年犯罪の凶悪化、低年齢化に対し、対処的に少年法の改正を唱える人も多い。しかし、熱が出て、解熱剤を飲んで治った気になるような物で、何で熱が出たのか問題にしていない。気が付くと身体は取り返しのつかないほど蝕まれるのだ。子どもたちを取り巻く政治や社会体制が悪いと言う人も多い。確かにその通りだが、では何が根本問題なのか、はっきりしていない。
 世界を自国の価値観や文化に統合しようと考える(あるいは、自国の価値観や文化が最も優れていると信じている)“世界のリーダー”アメリカでは、このような問題は以前より表面化している。経済中心で物質的な豊かさを追求し続け、経済的に貧しい国々を自国の“幸せのシステム”に組み込み、豊かになり過ぎ、取り返しのつかない程の成人病に苦しんでいるのだ。それにもかかわらず、未だに養生する事も無く、起こる問題は強力な抗生物質で押さえつけ、子どもたちには先物取引をゲームのように教え込み、その裏で犠牲になっている国々、その中でもしわ寄せの来る女性や子どもたちの事など全く関心を持たない状況を作り上げ、さらに“贅を尽くした食事”を食べつづける事を幸せと考える。日本もこのアメリカにあやからんと必死である。
 先進国と言われている国々の一部の人々は、このような状況を問題視し、経済的、物質的な豊かさを求めつづける事は、子どもたちの成育にとっても、また地球環境にとっても、正しい事ではなく、真の豊かさではないと論じている。真の豊かさとは、貧しくとも自然と共に生き、友愛の心を持ち、人の価値観を認めあい、様々な人種が共存していく社会である、としている。もちろん第三世界と言われる国々の人々の中にも同様の事を論ずる人も多い。しかしながらこのような事は、よくよく考えると理解の度合いは別として世界の誰しもが感じている事ではないだろうか。
 もちろん、その論自体は間違っていない。先進国と言われている国々の人々が、経済的には発展途上ではあるけれど、未だ自然が豊かで自然と共存しながら生きている国々の子どもたちと接するとき、自国の子どもたちを鑑みて、己が国の発展が間違っていた事を痛感するのは嘘ではないからだ。先進国と言われる国々において、様々な社会的な歪が問題視されるとき、人々は物質的に豊かでなかった時代や、そのような生活を送る人々を振り返る。しかしながらこれは単なる懐古趣味に落ち着き、物質的、経済的発展への欲望は、またむくむくと起き始めるのだ。懐古趣味的生活を送らざるを得ない人々にとって、このような趣味を押し付けられるのはこれまた迷惑な話で、彼らは今の貧しい生活から抜け出し、教育を受け、物質的、経済的に豊かな暮らしを望んでいる場合が多い。欲望と理想の矛盾に苦しむ人々は、その苦しみから抜け出す為に、問題に目を瞑り、欲望を優先させるか、理想の為に行動に出るかを迫られる。そして殆どの人々は前者を選ぶ。分かっちゃいるけど止められない…のだ。そして世界は何も変わらず、その歪は子どもたちに高い利息で付けられていく。
 しかし、その事を一概に悪とする事は出来ない。また、一般の個人レベルでその理想を成し遂げようとするのは難しいであろう。先進国と言われる国に住み、テレビもラジオも無い生活を送り、夏の暑い日にもエアコン無しの社会を作ろうと言えるのか。ゲームやパソコンを持つ人に、それは無意味だから捨てろと言えるのだろうか。もちろんそんな物は無くとも人は生きていける。でも冷蔵庫は必要だが、核エネルギーは要らない。現在の物質文明で築き上げられた矛盾だらけの社会を白紙に戻す事は事実上不可能であろう。
 では誰が社会を変える事が出来るのか。日本のNGOは、かろうじてアジアの一員という意識が残っている為か、比較的押し付けの支援活動は少ないように思う。そのNGOの中でも、日本人が失った精神的な豊かさや価値観を他の国々から改めて学ぼうという団体は多い。良い事である。一般の人々の、意識の上に立ち、開発教育という名の下に社会を変えていこうという人々である。コンビニでペットボトルのお茶を買ったり、弁当を買ったり、多国籍企業のコーヒーを飲んだり、ファーストフードのハンバーガーを喜んで食べたり、宴会で支援対象国からの輸入食品を気にせずに食べたりしないで頑張って欲しいものである。何しろ社会問題には誰よりも精通しているのだから…。また、先進国を名乗る首脳方も、第三世界の問題を話し合う場で、“贅を尽くした食事”を取りながらでなく、たまには“粗食”で話し合ったら如何なものであろうか。ちょっとしたパフォーマンスでも良いではないか。己が価値観や利益で考えるのではなく、相手の価値観を理解し、世界にとっての本当の利益を考える場のはずなのだから。
 話がそれたが、つまり、本当の問題は懐古趣味な社会を目指す事でなく、新しい価値観の社会を作り上げる事なのである。この社会を作り上げる事は大変難しく、我々やNGOが成し遂げる事は恐らく出来ないであろう。これが出来るのは、これから成長していく、あるいは産まれてくる子どもたちだけなのである。この子どもたちに大志を持たせられるかどうか、その社会づくりこそが我々やNGOの責任であろう。(この事についてはまた別の機会に詳しく述べたいと思う)

福猫