2001年8月13日

 本日、小泉首相が靖国神社を参拝しました。

 もとよりその意向であったわけで、日程を変更しようがたとえ中止しようが彼の意識が変わったわけではなく、今日の行動は対外的、政治的には問題を残すものの、日本の政府の代表の意思、思想においては、参拝意志の表明の段階ですでに問題を起こしてしまっていたわけですから、個人としては特に今更ながらに残念に思うことはありません。

 どのような言葉を用いようと、様々な人の意見があろうと、天皇の為、国の為に死んでいった人間を、アジア近隣諸国の人々を大量に虐殺した人間を軍神として奉る靖国神社が、日本軍国主義の象徴であり、侵略戦争の為に作り上げられたキミョウキテレツな神道もどきの新興宗教=国家神道の場である事は、否定できない事実です。

 日本の首相ははっきりと侵略戦争を肯定しているだけなのです。

 しかしこのような人間を生み出したのは私たち市民なのです。経済が低迷し、政情不安の世に、人々に望まれ生まれてきたのは、石原都知事であり、小泉首相なのです。強いリーダーシップを望むがあまり、国粋主義という爆弾を背負った人間をこの世に送り出してしまったのです。

 ただ、なによりも悲しく思うのは、靖国参拝に賛成した多くの市民、とりわけ若い層の割合の多さです。今日も学生のボランティアが日の丸を配り、多くの若い人たちが首相に激励を贈っていました。この光景を見ると、この国はどこへいくのかはっきりと見えてくるように思い、ぞっとしてしまいました。「つくる会」の教科書がなるほど国から必要とされているのも実感が持てます。お国のために一心につくす子どもたち、天皇、国という強権のもとに統制された国民・・・。今、コッカから求められているのは、かの戦時中の「ウツクシイニホンの姿」ではないでしょうか。なるほど世相で言う堕落した現代の若者や、凶悪な犯罪をおこす子どもたち、家庭でも社会でも権威を失った大人たちを見ていればそのような右に向いた懐古趣味も納得いく経過ではあります。

 しかし、社会に生きる子どもも大人もすべてその社会が生み出し育てたもの。人間という素材そのものはなんら変わってはいないのではないでしょうか。畑の野菜が土により出来不出来が変わり、さらにはダイオキシンまで持って生まれる場合すらあるように。歴史を戻して統制された国民を作り上げても再び破綻と悲劇が起きるのは明白です。

 人から愛される事を知り、人を愛する事を知り、可視、不可視の世界を五感で感じ、空想を膨らませ、常に新しいの価値観を生み出していく…私はそんな子どもたちが育っていく世の中がつくりたい。ほんの少しでもいい、そうやって子どもたちの未来を信じて生きていく事をしようとする人がいれば、きっと出来ると信じていたい。


 今日は日本の首相が事実上、侵略戦争を肯定しました。しかし、私たち市民すべての価値観に基づくものではありません。日本という国に生きながらも、みな様々な価値観で生きています。日本もアジアの国です。さらに地球の上の小さな土地です。この地球に生きる人間として、国という概念に左右されず、自然とともに共に、それぞれの価値観を見つめながら共に生きていける世界を作っていきたいと望んでいる人間が、この日本にも少なからずいる事を、近隣諸国の方たちに分かって頂きたいと願ってやみません。



補足

 私は出雲という非常に封建的な社会で生まれ育ちました。家によっては未だに天皇の写真が飾られているような地方です。ですので、地方の年配の方たちが理屈ではなく、今でも国や天皇を思いながら生活をしている事は充分理解できますし、年老いたその人たちの気持ちに異議を唱えたりするつもりは全くありません。

 戦争で亡くなった方たちを国として慰霊を行う、さらには首相が慰霊を公費で行う事は、国としての戦没者への謝罪として、寧ろ賛成すべき事だと思います。また、戦争で亡くなった方たちに対し、残された遺族だけでなく、若い世代の人たちも慰霊を続けていかねばならないと思います。

 日本軍が近隣諸国において行った慰安婦を始めとする様々な侵略行為は決して許される事ではありません。自分がその侵略された国の被害者の身内であったらと考えると、あまりにも悲しすぎます。しかし、どんな行為であれ、当時の軍国教育を受けていた一般兵士に、後の世代の人間がその責を問うこと難しいことです。

 問題は「靖国神社」であることです。その存在が本来の宗教法人でなく、元々は純然たる日本国軍の直接支配下にある軍事施設であったことです。靖国神社の目的は、思想統制・・・国民が進んで国の為に死んでいけるよう、神である天皇の皇民として、戦死した場合は天皇の下の神として国が靖国に奉りあげるという宗教を作り出すこと事です。さらに兵士が不足するにつれ、その補充に考えられた朝鮮や台湾の人材を、氾濫を避ける方法として、強制徴兵でなく志願兵という形で徴兵するため、日本語教育を行い、彼らの宗教とは無縁の神社を建て、日本名に改名させ、この日本国軍宗教を強制し、「死んだら靖国に奉り、家族の面倒は国がみる」といって徴兵していったのです。経済的に困窮していたこの「日本人ではない日本人」は家族のため、志願していった事は言うまでもありません。もちろん戦後、日本から独立して日本人で無くなった彼らへの個人補償はありません。その事をすべて承知した上で小泉首相は参拝しているのです。けれども考え方によっては彼自身もまた、靖国思想の被害者であるのかもしれませんね。

戦争で死んでいった人たちは靖国思想の被害者です。遺族の方たちが被害者でなく死んでいった身内や友を英雄としておきたいという気持ちは無理からぬことです。そのため現在も靖国神社が残っているのでしょう。しかし、この過ちは現実であり、私たちはこれを国家の犯した過ちとして認め、国は戦没者、その遺族、近隣諸国の被害者に改めて謝罪し、様々な価値観や考えで慰霊を出来る場に魂を移すべきだと思います。そうでないと死んでいった人たちは未だにその魂を軍国主義の中におき、存在しない天皇という神を探しつづけ、過ちを償う事も出来ず安らかな眠りにつけないのではないでしょうか。また、靖国に奉られているが為にお参りできない方たちの為にも。